全日本煎茶道連盟は、全国の煎茶道の流派が加盟し、活動している唯一の全国組織です。
 煎茶は、江戸時代末期から明治へと隆盛の時代がつづいていたのですが、西洋文化の流入と時代の変化に伴い、その後一時衰微したようでした。
 しかし、大正末期になると、京阪神地方の煎茶家を中心に、高遊会が結成され、煎茶復興の運動が起こりました。
 煎茶復興はまず売茶翁の顕彰からと、京都・宇治黄檗山萬福寺に売茶堂を建立し、あわせて煎茶席有声軒を建てました。
 黄檗山が煎茶と深い関係があることと、売茶翁自身が、元来黄檗宗の僧であったからです。昭和3年秋に完成し、昭和4年以後、毎年盛大な煎茶会が開かれるようになりました。
 この茶会は、高遊会茶会として知られ、全国の煎茶家が一堂に会する大茶会となったのでした。黄檗山内に豪華な席が繰り広げられ、それは明治初期の煎茶の全盛期を彷彿とさせるものであった、といわれています。
 やがて、第2次大戦下となって、その活動も休止せざるをえず、煎茶復興の火は消されようとしたのでした。
 しかし、戦後間もなく、全国各地で煎茶は復興され始め昭和29年、黄檗山で立宗三百年大法要が営まれるにあたり協賛煎茶席が開筵されました。それを機に、全国の煎茶道の家元が参加して、連盟結成の動きがあり、昭和31年1月、全日本煎茶道連盟の結成を見たのでした。

 連盟が結成されるや、活発な活動が開始されました。結成の年、つまり昭和31年5月には、第1回全国煎茶道大会が黄檗山で盛大に開筵され、昭和32年5月には、月刊誌「煎茶道」が創刊されたのをはじめ、各地で各流合同の茶会なども開かれ、日本の伝統文化としての煎茶道の普及、発展のための活動がつづけられました。
 昭和37年には、売茶翁二百年忌を記念して、全国千席運動を起こし、この年の秋には、その一環として京都東山一帯の有名寺院などを会場に、百席茶会が開かれました。これには、全国の流派が参加し、煎茶史上に残る大茶会となりました。
 連盟の健全な活動は、広く認められるところとなり、昭和41年5月、文部省(現:文部科学省)から社団法人としてみとめられることとなり、連盟も新発足することとなりました。
 煎茶道全国大会、月刊誌の発行などの事業の継続と同時に展覧会・研修会、などの開催をはじめ、煎茶関係の図書をも刊行、その活動はますます充実されました。
 昭和41年以来、全国の会員を集めての研修会を毎年夏に開催、昭和42年秋には、東京で煎茶道文化黄檗遺墨展を開催、昭和45年開催の日本万国博覧会には、全期間を通じて会場内で煎茶席を開くと同時に、万博協会来賓の煎茶接待を担当、昭和57年3月には東京で黄檗文化展を主催するなど、多彩な活動をつづけています。
 文化庁の指導のもと、煎茶道唯一の全国連盟組織として、全国の有力流派が加盟し、煎茶道の正しい普及と発展のための活動が行なわれています。
 結成以来、本部事務局は売茶翁ゆかりの黄檗山内売茶堂および有声軒に隣接して設置されています。昭和60年には本部としての煎茶道会館が完成しています。

「国と特に密接な関係がある」特例民法法人への該当性について

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